私と家族

不動産の処理 1 (木, 24 5月 2018)
2013年6月下旬、父親が倒れて緊急入院したという連絡を受けたとき、まず私を襲ったのは、しまったという思いであった。私は父親が所有していた田畑や山林の処理に長い間頭を悩ませていた。父親には、それらの不動産を早めに処分しておいてくれるように頼んだが、父親は耳を貸そうとはしなかった。「今は、山林は二束三文であるが、時代は変わる。また山林の価値が出てくる時代が来る」というのが父親の口癖であった。父親にもしものことがあったら私は父親が所有する不動産の所在地も境界もわからなくなることを恐れた私は、帰省する度に父親と一緒に山林を見て回った。カメラやビデオカメラを持参し記録をとった。しかし1年経つと山林の状況はすっかり変わっていた。 父親が入院した病院に私が駆けつけた日には、まだ父親にはわずかに意識が残っていた。父親はうわ言のようにではあったが、発作のときの状況について、目を閉じたまま、「頭にドンと来た」と語った。そして麻痺のない左腕を自分の頭に持っていった。しかし、主治医からは2日後には父親の意識がなくなると告げられていた。たとえ意識だけが鮮明になったとしても自宅に戻ることは不可能であろうと私は思った。しかし急性期を乗り越えれば父親がすぐに死ぬこともあるまいとも思った。 私は父親が100歳まで生きることを想定して介護に要する費用を頭の中で計算した。父親を東京の施設に移す手段や転院先についても思案した。私の家内は父親の介護施設を東京で探してくれた。しかし父親の病状は悪化する一方であった。その上、母親も入院することになった。母親は東京の病院に転院することを頑として拒否した。両親が元気だった頃から、両親とも高知で人生を終えると、私は母親から告げられていたので、東京への転院を私は無理強いすることはしなかった。幸い、土佐市内にある白菊園病院が両親を長期間入院させてくれることになった。 両親の治療は主治医に委ねるほかない。そう考えた私は、父親が所有している不動産の処理を本格的に始めた。しかしこの作業は実に困難であった。 まず、父親が所有する田畑や山林を私は全て知っているわけではなかった。市役所に出向くと父親が所有する不動産の一覧表をコピーすることができたが、土佐市内の不動産だけで40数筆もあった。その他、父親は近隣の市町村にも山林を所有しており、それらの市町村からも不動産に関する書類をもらわなければならなかった。市役所では切り図をコピーさせてくれた。しかし切り図だけでは田畑や山林の境界は皆目わからなかった。境界線には何の目印もなかった。現地に出向いて自分の目で境界を確認するほかなかった。
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改葬 6 (木, 24 5月 2018)
我が家代々の墓地が我が家の所有でなかったことは既に書いた。このことを私が知ったのは実家のご近所の方から教えてもらったからであった。その人は、私が別のことを依頼していた司法書士からそのことを聞かされたと言った。私自身は、その司法書士からは何も聞かされていなかった。市役所に出かけてその墓地の所有者を確認したところ、確かに我が家の墓地は我が家の所有ではなかった。隣りの家の持ち物であった。 私はその司法書士に電話をかけ、事情を尋ねた。しかしその司法書士は口を濁し、私にではなくご近所の方にそのことを話した理由を説明してはくれなかった。私の家の事情を当事者である私には何も話さず第三者に話すことは司法書士として失格ではないか、そう考えた私は、それ以後、その司法書士には何も依頼しないことにした。ただ、その司法書士を私に紹介してくれた知人には事情を話さなかった。その知人は私に不信感を抱いたかもしれないが、その知人とその司法書士との仲が壊れることを私は憂慮した。 介護は単なる看護ではない。ましてや面会でもない。介護離職という言葉が最近よく聞かれるが、私はその事情がよく理解できる。仕事を持っている私が東京と高知とを往復しながら両親の介護をすることは実に大変であった。
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